考えながら。
書いてます。
えっと。
んー……
ないことを証明することを。
『悪魔の証明』と言うらしいですが。
ないことをあるように説明し。
周知したと同時に認識の共有が行われたとするならば。
それは、その社会に於いては。
あるのと同義なのではと、思わなくもないのです。
噂とか、最たるモノですよね。
流行もそうです──まぁこれは、あるとかないと言うよりも認識しているか否かの話なのですが。
では、神は如何でしょう。
いるでしょうか──それとも、いない?
僕にとっては。
いる人にはいるし、いない人にはいないんだろうなと思うのですよ。
信じない人にはいないし。
信じる人にはいるでしょう、と。
宗教の存在については知っているし。
そう言った存在がいるとされていることを知っていながら──そんなのはデタラメだ、なんて言ってしまったら。
そんなの、なんにだって適用されてしまうことですから。
生産的ではないなぁと、思わざるを得ないのですよ。
逆に、『書いているから真』とか。
『かのかたが言っているから真』と言うのも、あんまりな話です。
強いて言えば、自分で見た聴いたと言うことについても。
自身の見聞きしたモノを勘違いか真実かを自分の力で区別するなんて至難ですから。
証明の仕様もないモノですから。
実際、信じていない者が零れ落ちる話が多いわけですし。
同じことを再度書きますが。
信じない人にはいないし。
信じる人にはいる、と言うことで。
よくないかと。
そうは問屋が卸さない世界だと言うことは、重々承知しているつもりですけどね。
いちおう、宗教には寛容なタイプなんですよ僕は。
人に期待をしないように。
信仰にも、期待をしていないので。
人のことは人のこと。
自分のことは自分のこと、なのです。
──え、僕ですか?
神かどうかは分からないですが、そんなのがいたら面白そうだなとは思いますよ。
10年以上も見つかっていなかったコインが。
蝋燭が燃え尽きる様を眺めていたら雷に似た音とともに傘から転がってきたと証言したかたを知っていますが。
そのかたは、少なくとも。
科学は万能ではなく、自身の認識にも限界があり、到底及ぶことのできない領域に畏敬の念を抱くことがどれだけ肝要なことかを悟った──と、仰ってましたね。
僕は……どうでしょう。
そう言った経験をすると、あのかたのようにコペルニクス的転回を迎えるかは分からないですが。
そう言った経験をすると、面白いだろうなぁと思うのですよ。
いつだって僕は、新奇性を求めておりますから。
──ふぅ。
いい感じに纏まりましたね、たぶん。
よかったですよぉ。
ネタがなくてどうしようかと思ってたんですから……書いてみるモノですね、あはは←