幸せとはなんなのか。
実のところ、よく分かっておりませんが。
実は大昔。
「幸運」をテーマに授業をしたことがあるのですよ。
幸運になるために必要なことと。
幸運であるために必要なことについて。
心理学的実験を織り交ぜながら。
簡単に、授業をしたことが。
実はそのとき、バウムテストも行いました。
心理療法家ではない、単なる心理学徒に過ぎない昔の自分に今は呆れるしかないのですが←
純粋に、好奇心を満たしたいと言うのがありましたし。
そのときの関心事が正確か否かについて──感覚的な主観データだけではなく。
感覚的な客観データも収集したかった。
なんてことが、ありましたから。
それで、授業にバウムテスト。
正確には──バウムテスト擬を、行ったわけですが。
案外、授業は上手く行きまして。
あとで受講した側とその保護者さんから感謝されることになったわけですが──それは別の話。
……あぁ、そうそう。
その関連で最近、思うことなのですが。
幸運になるために必要なことと。
幸運であるために必要なこと、ですか。
正直な話、起こることについては。
特に変わらない筈なのですよ、これって。
物理的な制約がある以上。
コントロールできないことについては手放す必要があるのですが。
それで周囲が変わるかと言えば。
通常通り接してくることのほうが殆どじゃないのかなぁと。
その方々が、お引っ越ししたり。
お亡くなりになってでも、くれない限り。
若しくは、対物的なモノとして。
日陰を形成するように聳えていたビルが壊されて駐車場になりでもしなければ、そこは日陰にならざるを得ないのと同じように。
まさか、ビルを爆破するわけには行きませんから。
その業者であれば、話は別とは言いつつも。
──ただ、自分自身の考え方については。
変えることができる、と言いますか。
立ち位置を増やすことや、見る世界を変えること。
そして、見聞きできる領域を広めることが、できるわけですよね。
あとは、何かが起こると。
他者のせいにして怒る人がいますが。
それはかの授業通りのシナリオだと。
いちばん、よろしくないことなのですよ。
そこには、発展がないですし。
コントロールできないことに苛立っている自身の未熟さを棚に上げている以上は。
幸運からは遠いと、言わざるを得ないのですよ。
執着する必要のないモノに、執着してしまうと、それだけしか見えなくなりますから。
溺れる者は藁をも摑む、でしたっけ。
すぐ近くに岸があっても、でしょうか。
そして、溺れているときに。
なんで溺れる羽目になったのかと思考を巡らせたところで、自身の生存率はどんどん低下してしまうのですよ。
そんなことよりも。
自分が生き残るには何をするべきかを考え動くことのほうが。
よっぽど、いいわけです。
そのほうが、生き残る確率を最大限まで上げることができるわけですね。
怒りを感じたら、他者を責めるのではなく。
自身の怒りの水脈を探り、成分を検め、塞ぐ必要があれば塞ぎ、適切な場へ流し続けることがよいと判断したならば。
そちらへ、流し続ければいいのです。
決して、押し出したりすることはせずに。
──幸運でいられる人とは。
まさに、考え続けられる人であり。
自分の行いについて自分で責任を取る意思を持ち。
実際に責任を取る人だと、思うのです。
それが、自身をコントロールすることに繋がり。
意識を外に向けたときの羅針盤と、なるのですから。