『将来何になりたいか』
と言う質問に対し、答えることが得意な人でしたが。
『将来どうありたいか』
と言う質問をされると──考えてしまう子どもでした。
なぜなら──前者の質問と、後者の質問。
あんまり区別が、付かなかったからです。
……いや、厳密に言えば。
後者の質問って現在と比較したときに将来には某かの変化が生じていること前提のモノなので。
この質問者は何を求めているんだろう、と考えてしまい。
答えにくかったのです──そもそも。
その人がどうありたいかを訊かれたとして。
それに対し返事が来たら──質問者は、ニュートラルな立場を貫けるモノなのでしょうか。
右翼と左翼が、己から見て右か左かのように。
ただその右寄りか左寄りかが──己にとってノーマルかアブノーマルかが存在するように。
仮に、アブノーマルな回答が来た場合に。
相手に対してニュートラルな姿勢を見せることが可能なモノなのか──少々、疑問でしたから。
答えてよいモノなのだろうかと、思ったモノです。
これに答えることは不誠実だし──質問者も相手の尊厳を検討するだけの知性が足りていないんじゃないだろうか、と。
王族だって、皇帝だって。
アブノーマルだと見做せば反乱分子として屠ってきた歴史があります。
現在、その行為自体が一般的に禁止されているので。
異常だから屠る──なんてことは、この国では起こらないまでも。
自己を正当化できる大義名分を用意しては。
少数派を弾圧していく人達を見ていると。
人はそれほど変わらないモノだなぁと、思うわけです。
で、話を戻しますが。
さぁて、将来どうありたいか?
──そんな大切なこと、答えてよいモノなんでしょうかね。
寧ろ、『将来何になりたいか』と同義のことを言っていると推定し。
「〜になりたい」と答えたほうが──身のためなんじゃないか、と。
そう思うような、子どもでした。
──えぇ、考えすぎですけどね。
とても、考えすぎていて。
アリよりのアリ、でしたよ。
当時の僕が僕のままでよかったです。
どうありたいか?──少なくとも既に、叶ってますし。
叶い続けていますし。
この先も、叶い続けることでしょう。