誰かの発言を見聞きしているとき。
なんの視点から発言しているかを。
考えることが、あります。
なぜなら、その人が話していることには違いがなくとも。
人の視点に立って話をしているのか。
神の視点に立って話をしているのかを考慮に入れなくては。
その人を、愚かしい生き物だと断じたり。
サイコパスだと断じる原因に、なってしまうからです。
例えば、人の視点に立ったときには。
その人の発言には情が籠り易くなりますし、倫理的であろうとする傾向が強くなります。
その結果、不特定多数の支持を集めることもあるものの。
神の視点に立って考えるきらいのあるかたにとって理論的に穴だらけであり。
余分なモノでこびりつき。
なんとも気色の悪い発言に聞こえてしまう──なんてことも、あるのではないでしょうか。
そう、さっきから書いてある。
わたしの文章のように、です←
それが、もし神の視点に立ったときの話であれば如何でしょう。
今度はその人の発言には理路整然とした因果が見えてきます。
ABCDEのように法則が単純明快であり。
AJRNGのような無秩序さは見当たりません。
法則性を吟味することのできる人であれば、その論理構造が正しいことに気付きますし。
考えのプロセスが異なったところで「そんな考え方もあるのか」と認めることも可能になります。
なぜなら、そこに一理あることが明確であり。
分からないまま有耶無耶にされる、なんてことはまずないからです。
ただし、そのような見解は。
人の視点に立つかたから見れば、世迷言のように捉えられかねません。
論理的に正しいからと言って、人がそれに従えるとは限らないのです。
個々人には感情があり、波長があり、合う合わないが確実に存在するからです。
そして、神の視点の前では全てが平等に扱われるため。
常識の有無とか倫理の有無なんてモノも、押し並べて『あってもなくても同じこと』になってしまいがちです。
本当に神が執り行うのであれば、渋々従う人も。
神の視点で発言している人が紛うことなき人であると分かっている以上。
「なんだあのサイコパス」と思おうが。
反感を抱こうが──致し方のないことかと、思うのです。
……と、言うことです。
なのでわたしは、そのかたが。
人の視点に立って発言されているのか。
それとも神の視点に立って発言されているのかを、考えることにしているのです。
だって、どちらも不完全ですし。
良し悪しは、あるわけなので。
許そう、と言うことではないのです。
これもこれでアリだなとわたし自身が思えなくなったら──と、考えると。
ゾッとしないのですよ、わたしは。
だって、自身で自身の了見を狭めるなんて──愚かしいこと、ですもの。