よく、こんなアドバイスを見聞きます。
「疲れているなら、何もしなければいい」と。
えぇ、それはそうでしょう。
何もしなければ、身体の疲れは癒え易くなるでしょうし。
されど、こうも思うのですよ。
『それができていないのがなぜかについては考えられないのかな』と。
なぜか、「疲れた」と言うと。
身体的な方面の助言ばかり返されがちですね。
身体の回復が先決で。
精神の回復は後回し──と言う。
なるほど、容器にヒビが入っているならば。
補修してから液体を注げと、そう言うことですか。
ところで、その液体が容器に対して腐食性のあるモノに変わっている場合には。
容器を幾ら補修しようとも、元の木阿弥になってしまうわけですが。
それでも、容器の補修が先決なのでしょうか。
これについては、言うまでもないことかと──えぇ、なので。
相手に助言をすると言うときには。
相手の補うべきモノがなんなのかについて──吟味する必要がありますし。
それで不明な場合には。
どれだけ他の人にとって有益なアドバイスであろうとも──その人にとっては。
邪魔なだけ、と考え。
聴くことに徹するか、何もせず見守っているか──それが最適と、言えるでしょう。
……え、何もしていなくても液体が綺麗になることもありますよ。
その人の問題をこちらが解決する謂れもないわけですから。
何か、取り返しの付かなくなりそうなタイミングで。
処置を施すことができれば、いいんじゃないでしょうか。
……と、思うのです。
──いや、「疲れた」とは滅多に言わないですね。
自分以外のかたを長年、眺めていて。
そんなことをよく、思うモノですから。
そのことについて、記しておこうかなって。
ほらこのブログって、自身の記録用ですから──あはは。