祖父母の家に遊びに行ったら。
足の不自由な祖父が、リュックサックを背負い始めたので。
何をしているのか、と訊いてみました。
すると、こんなことを言い始めました。
せっかく、遊びに来たことだし。
何か、買い出しに出かけてくる。
……と。
老人よ、海の藻屑になりたいのか……なんて。
わたしは思ったわけですが。
そのまま、行かせることにしました。
本人が、行きたそうにしているのに。
こちらが止める義理もなかろう、と。
そのおかげかどうかは分からないですが。
満足そうな足取りで帰ってきたので、これはこれでアリだったのだろうと。
思っています。
おかげで、さらに夕飯が充実したことですし。
──本人がやりたいことについて。
やめた方がいい、と言うかたがいます。
もちろん、それをやったら死ぬとか。
重度の障害を被るとか。
大怪我を負う可能性があるとか。
場合によっては、そのような理由で。
止めるほうがいい、と言うこともありますが。
それらのリスクを本人が重々承知しているのであれば。
止めないと言うのも、アリだろうと思います。
本人が本人の裁量で自由権を行使する、と言うことなのですから。
こちらが止めると言うのは。
相手の自由権を侵害することにもなりかねませんし。
そのおかげで、こちらもメリットを享受できるのであれば。
アリよりのアリと、言ってもよいのではないかと。
……んー、信じているから?
いいえ、信じていてもいなくても。
わたしは同様の判断をしたと思います。
こちらのリソースが奪われるわけでなければ、と言う条件付きで。
その場で得しても。
その後にそれ以上の代償を支払う羽目に陥るとするならば。
それは、止めるでしょう。
例えば──本人が、歳の端もいかぬ子どもであり。
碌な分別もない、と言うことであれば。
止めるのは当然だと言えます。
なぜなら──そのような人物が目の行き届かない場所に一人で行ったり。
制御不能な自由を行使してもらうこと自体に、莫大なリスクを伴うからです。
その子が、死亡したり。
重度の障害を負ったり。
無事に帰ってきたとしても。
一人でどこかへほったらかしたと周囲から看做されれば、某かの誹りは免れないでしょう。
その子を信じていても。
信じていなくても、変わらずです。
……なのに、それが。
大人だったり、老人だったりすると。
信じるか信じないかが指標になるかたがいます。
それが、とっても不思議でなりません。
その指標は、どこから持ち出したモノなのでしょう。
そしていつから、持ち出したモノなのでしょうか。
──と、昨日食したモンブランの味を思い出しながら。
綺麗な水を、飲むのでした。