えー、初めに。
今回の話は、少々ショッキングな内容を含みます。
自分の思っていることを書いただけなのですが。
読んでいるうちに、気分が上がったり。
逆に、下がったり。
やけ食いしたくなったり、何も食べたくなくなったりするかもしれません。
なので、少しでも「あれ、おかしいなぁ」と思ったかたや。
嫌な予感がするかたは、別のブログ記事を読まれることをお勧めします。
──よろしいでしょうか。
何度か改行しておくので、大丈夫なかただけスクロールして続きを読んでみてください。
こんなことがあります。
とても不謹慎ながら。
嗚呼、首括りたいなぁと。
この方法がいちばん、気持ちいい方法だったので。
そんなことが、生きていると。
数え切れないほど、起こるんですよね。
外的なトリガーがあるかどうかは。
この場合、どちらでもよくて。
一度、行なったことがあるのであれば。
それはもう、内にトリガーがあることと同義なのです。
最低でも一度、自死を考えたことがある。
そして最低でも一度、企てたことがある。
そして、最低でも一度。
実行したことがある場合には。
自殺するかしないか。
と言う選択肢が特に希望せずとも生まれてしまうと言うのが。
以前に単位を採った某大医学部医学科の。
ただ、医師ではないけども、と言う曰く付きのアラフィフ先生のお話だったわけですけども。
実際、その通りです。
受講当時には既に1度、自殺を図っておりましたが。
やろうと考えているときよりも。
やったときのほうが、シミュレーションゲームのように。
大々的な選択肢が、脳裏に過ります。
死ぬか、死なないか──と言う、二者択一を迫られます。
そんな、毎日です。
なのでほぼ毎日、後者を選択するのですが。
何かの間違いか、態とかの違いはあれど。
前者を選択してしまう──いや。
選択“する”ことがあるのです。
不謹慎ですよね──ですが、事実そうなのです。
つまり、自分で自分の引き金を引くことができるようになってしまっている。
と、言うことですね。
あれだけ躊躇して、何度も何度も考えて行なったことが。
間の部分はショートカットされてしまうわけです──すこーん、と。
仕事や勉学がこなれてくると。
反射的に何度も行なってきていた正しいことを行えるようになるのと同様に──です。
仕事や勉学であれば、そのほうが効率的ですし。
判断や行動が早くなるため、いいに決まっていますね。
ところが、自殺の場合には違うわけです。
完遂すると後戻り、できませんから。
自分がよかれと思うことであろうと。
死の淵に落ちていき意識が泥のように溶けていく中。
あ、やっぱり生きたいとか。
死にたくないとか──そんなことを思ったところで。
後の祭り。
諦めるしかないトコまで逝ってしまうのが──自殺をすると言う行為なんですよね。
なので、何度も「死ぬか死なないか」と言う選択肢が浮かぶと言うのは。
自業自得とは言えども、疎ましく。
同時に、悩ましいモノなのですよ。
それほど、死への希求と言うのは強大なモノですから。
──にも拘らず。
意外と、死なずにきているんですよね。
たまに「死ぬ」と選択するんですよ。
1度ならず幾度も、です。
実際、延長コードを手に持ち。
ドアノブに引っ掛けたり。
首に回して、あとは体重をかければ終わる。
じゃあちょっとだけ──と、やっていたこともあります。
……ですが、これは。
自死を選択したことがあるかたなら、共感していただけると思うのですが。
似たような選択肢が、何度も出てくるんですよね。
「これでいいか。はい/いいえ」とか←
「思い残したことはないか。はい/いいえ」とか。
「自然死よりも体力があるのだから多少なりとも苦しい、それでもいいか。はい/いいえ」とか。
──そのときに、全ての『はい』を選んでしまうかたがいます。
まだ生きたいかたにとっては、褒められたことじゃないですし。
わたしのようなホルダーにとっても。
複雑な気分になります。
「決断力があっていいなぁ」と言うのと。
「もったいないなぁ」と言うのと。
「生前の後片付けはしたんだろうか」と言うのと。
「仕方ないなぁ」と言うのも。
綯交ぜに、なりますから。
なんだかなぁと、思うのです。
わたしはどこかで『いいえ』を選んでしまうけどなぁと。
自暴自棄にならずに全て『はい』を選んだのかなぁと。
もし、そうじゃないとしたら。
自分だったら嫌だなぁ──と。
そして、そうだとしたら。
やっぱり不謹慎ながら、思ってしまうのです。
おめでとう──きみの願いが漸く叶ったことを嬉しく思う。