日常というモノを。
こよなく愛しています。
変わらないことは、いいことです。
いいことは決して変わらない、と言えます。
ただ、ずっと変わらないと。
それはそれで、飽きるんですよね。
たまに、身体に悪そうなモノを食べたくなったり。
心身に悪影響を及ぼすと知っていながら夜更かししたりして。
日常を、なるべく。
難易度調整して──非日常に近付けていく。
なんてことの極致と。
端から見てると言ってしまえそうだなぁ、と最近思う行為は。
自傷行為、なんですよね。
あんなの、つらい痛い苦しいの三拍子なのですが。
日常的につらい痛い苦しいの三拍子を経験していると。
だんだんと、無痛になってくるんですよね。
つらくない痛くない苦しくない、と言う。
すると、生きているかどうかもよく分からなくなっていくので。
自分を傷め付けてみる、と。
すると、つらい痛い苦しいの三拍子を。
そのときに、味わうことができるから。
安心するんだと思うのですよ──生きている感じがする、つまり。
日常に回帰してきたようで。
……端から見ていれば、逆なんですけどね。
当事者から見ていたら。
逆になってしまっていることも、儘あるなぁって話です。
そんなかたに、「痛いからやめなさい」と言ったらどうなるか。
普段から自傷行為に耽っていないかたにこんなことを言うのと同義じゃないかなって思うのです──えっと。
痛くないから手首切ってみなさい。
……と。
なので、わたしの場合。
相手の尺度を正確に測るようにしています。
そして、こちらの尺度が相手と一致していることを前提とはしません。
同じ感覚を共有していると看做して話を聴きません。
あくまで、相手が何を言い。
何を感じているかが、この場合は殆どと言っても過言ではないのです。
なので、どうか。
分かった気には、ならないようにしてみてください。
話の齟齬が発生するとすれば。
それは誰かのせいと集約できるモノでもありませんが──責任の一端は聴き手にも間違いなく、あるのですから。
そこから、目を逸らさないことです。
聴くからには──訊くからには、言うからには。
何がなんでも、責任を取るのです。
責任を取り続け、自由であり続けるのです。
これが、わたしにとっての。
日常、なのですよ。