アルコール依存症のかたが。
多く入所している施設に訪問した話を。
ちらりと、同僚に話す機会があったので。
ちょこっとだけ、してみたんですよね。
そこでは、割とフランクに。
あの酒が美味しかったとか。
実際に作って、税務署のかたがやってきて。
追徴しつつ「ところで我々にも呑ませてください」と言って呑んでいったと言う。
なんとも、今の御時世なら大問題になる話を。
笑いながらしているモノだから面白かったなぁ……なんて。
そんな、話をしたんです。
すると、こんなことを言われました。
「アルコール依存症の人がそんな話をしていいんですか?」と。
なので、わたしはこう答えました。
『忌避するから、追われるのです』と。
──だって、ですよ。
体も心も、どっぷり持ってかれているわけですし。
酒が美味しかったかどうかは別にしても。
酒を求め、呑み、そして呑まれ。
回復してもまた呑み呑まれたくて求めるなんてことは。
求めないことよりも、自然なことなんですもん。
なのに──酒の話をしたいのにしない、と言うのは。
それって、「シロクマを思い浮かべないように」と自分に言い聞かせながら。
絶対にシロクマを思い浮かべないようにと必死になるのと、何も変わらないじゃないですか。
不可能なことなのですよ。
死へと向かう快楽って、それほどまでに強固ですし。
その享楽なんて。
骨身に沁みて離れないんですから。
依存対象に対して、我々は無力であって。
乗り越えようとする必要はないのです。
乗り越えられないから、です。
ですが──隣人にはなれるんですよね。
抑も、乗り越える必要はないのです。
壊す必要もありませんし──イネイブラーを殺す必要もありません。
ただ、自身が隣人の性質をよく熟知し。
自身が何者であるかを見つめ直し──構成し直していくこと。
これが、必要なわけですね。
あくまで、自分が主体ですから。
なので──えっと。
「(アルコール)依存症のかたが対象の話をしていいのか」ですか?
いいに決まっているじゃないですか。
いいんですよ、どっぷりだったことを認めてしまっても。
どれだけみっともないことをしてきたかとか。
今後も対象が近寄ったら絶対に依存するような人だと、認めてしまっても。
──そう言うことを、当事者から学ぶことができるので。
そうですねぇ──(少なくともアルコールについては)非当事者であるわたしが。
施設見学に行くのも。
そう言うこと、なのかもしれません。
みっともないことをしてきたし。
これからもみっともないことをしていくと思うのです、わたしは。
生き恥を曝す、と言いますか。
生きていること自体恥、と言いますか──ですが、よくよく考えてみると。
死ぬまで生きるって、そう言うことですよね。
そのとき、「じゃあ死ぬか」とならないのは──色んな理由があるわけですけども。
ひとつは、上記のぐだぐだ話したことに“依存”するんだろうなって。
はい、本日はここまで←