koihaouka’s blog

ごゆるりと、ゆるゆるなさいませ。

指が動くままに

大蛇丸だと信じて疑わない人を。

最近見かけなくなったのですが。

 

どうしているんでしょう。

忙しくてそれどころではないのでしょうか←

 

さて。

いま猛烈に、二八蕎麦を食べたい気分です。

 

なんにせよ、今日は。

28日ですから。

 

……え、29日?

別に肉を食べたいと思わないですよその日に←

 

だって肉なんて、食べない日ないですから。

んー……脂肪分だけ、ちょっと気になりますけどね←

 

で、なんでしたっけ。

あぁ、お蕎麦の話。

 

『スシくいねェ!』をヒットさせたグループが昔いましたが。

そのあと、『そば食いねぇ!』をそのうちの1人が出したらしいですね。

 

全然売れなかったとか。

まぁ、リリースできたのでそれはそれでよかったんじゃないかなと。

 

他人事なので、他人事として。

思うわけですが。

 

──ところで、『ルーン使いの言の葉』につきましても。

そのようなスタンスで、行っております。

 

読んでいただけることはありがたいですし。

それが励みにならないかと言われれば、そうではないのですが。

 

恐らく、お客さんが来ようが来まいが。

僕は書き続けると思うのです。

 

これは僕にとって。

僕自身を記録するためのモノで。

 

日課、ですから。

今さらなしにしようとしても。

 

気持ち悪いんですよね。

なので──飽きるまでは続けるんじゃないか、と思いかけましたが。

 

飽きても書き続けるんじゃないかと。

そのようにプログラムされておりますから。

 

もし、やらなくなるとしたら。

どこか損傷したときなんでしょうなぁ、うん。

 

で、なんの話でしたっけ。

話が飛びまくりますねぇ、すみません。

 

えっと。

それはそうとして。

 

本日もお越しいただき、ありがとうございます。

ごゆるりと、ゆるゆるなさいませ←

霧が雫になるように

よく眠れた日と言うのは。

精神的に安定していることが多く。

 

インプットもアウトプットも捗るので。

勉強には打って付けの日なのです。

 

なので、今日も今日とて。

社会保険労務士の過去問をサラサラ解いて……と、言うときに。

 

ふと、思い出すのです。

焼肉を食べに行ったとき、サーロインの語源を答えられなかったなと←

 

しかも、部位を腹のほうと誤答していたような。

何言ってんねんって話ですよね、コレ←

 

だって、サーロインって。

サー(卿)ロイン(腰の肉)なんですもん。

 

なのに、腹とか。

あの赤身部分は脂肪かよ、と←

 

英国で当時の王様が。

その部位を食べて感動して、「この部位に卿の称号を与える」って言ったのが語源なんです。

 

昔々、どっかで見聞きした筈だったのですが。

あの場でパッと訊かれたときに答えられず……しかも、間違ったことを………………!!

 

ぐぐぐぐ。

いや、お腹が空いたわけでは←

 

──なんてことを思い出すと。

記憶が強化されて、さらに覚えちゃうんですよね。

 

え、何って。

サーロインの語源についてですよ。

 

……しゃろーし?

なんすかそれ美味しいんすか?←←←

 

言の葉の品定め

「モノは言いよう」という言葉が。

割と、好きだったりします。

 

物事は多面的であり。

あちこちから眺めればその分だけ答えがあるのに加え。

 

定量的な部分にも着目すれば。

これまた多くのバリエーションができるわけですね。

 

こちらがどこに着目するかによって。

相手への伝わり方が変わる、と言うのもまた。

 

面白いモノだと、思うわけです。

例えば──そうですね。

 

「僕は無口です」と言うのと。

「僕はよく考えるほうです」と言うのとでは。

 

どちらのほうが、印象がいいでしょう。

後者では、ないでしょうか。

 

また、「僕は無口です」とただ言うと。

『あ、そう』で終わってしまいますが。

 

「僕は相手に失礼のないよう、考えている間は無口になるようにしています」と言えば。

無口であることについてある程度の特色が見え、理解し易くなるのではないでしょうか。

 

少なくとも、『あいつは人と関わりたくないんだよ』と思い込むことはなくなる筈です。

〝相手に失礼のないよう〟振る舞う人が【人と関わりたくないから】そうしていると結論付けるには、論理が飛躍しすぎているからです。

 

ただ、それも。

発信する側が言葉を選ぶからこそ、起こり得ることですね。

 

あと、受信する側を正確に選んだからこそ。

正しく受け入れてもらうことが、できるわけです。

 

なので、僕は。

『モノは言いよう』だと思っています。

 

なんて言うか、と言うことと。

誰に言うか、と言うことです。

 

僕の経験からすると。

前者に強い人は後者に弱く、逆も然り──な、印象を受けますが。

 

あなたは、如何でしょうか。

どちらを意識していますか?──それとも、両方意識できているのでしょうか。

 

もし、そうなら。

僕、精一杯見倣いたいです──まだまだ、精進が足りませんから。

未だ来ていないことについて

8月の大きめの試験が終わったら。

ITパスポートを受験してみようかと。

 

んー、生粋のアナログ主義者なので。

パソコンの操作が基本的なことしかできないので。

 

あと、なんの気になしに問題を解いてみたところ。

割と、面白かったので。

 

受けてみようかなと。

仕事の合間に勉強していれば、試験日までに仕上がってはいるでしょうから。

 

当職に就いてからと言うモノ。

気になった資格はそのようにして採ってきましたし。

 

今回も、そんな要領で。

そうじゃないと、大学院科目が疎かになってしまいますから。

 

あちらはあちらで、しっかり行います。

単位を取得することが目的ではないので。

 

修めることが目的で。

単位は二の次──勝手に付いてくるモノと、思っておりますゆえ。

 

……と、言うわけで。

社労士の学習も漸く折り返し──基本に忠実に、しっかり行っていきますか。

 

やったこと自体は、無駄にはならない。

と言いますか──意地でも、しませんから。

合同供養するまでは

『運転免許が必要か』と訊かれて。

「(わたしは)別に」と返したものの。

 

必要かどうかはその人の状況に依存するので。

あれば便利ならあってもいいのだろうな、と思う今日この頃です。

 

わたし、困ったことがないのですよ。

当然に、幼少の頃から自動車を運転してきたわけではありませんから。

 

徒歩と公共交通機関で事足りると思っておりますし。

なんなら自転車があれば充分だろうとも思うので。

 

身体機能の衰えを感じたら、自転車では不充分と相成りますが。

最悪、少し割高になろうとタクシーを用いると言う手もありますし。

 

それでは不自由である、とは言いましても。

幼少の頃から車を運転してこなかった以上。

 

それで事足りる、なんてことも理論上可能なわけで。

別に生活する上では運転免許がないと大変と言うわけではない、と思っています。

 

足になる人がいれば、同乗すればいいことですし。

その対価を請求されれば渡せばいいのですよ。

 

少なくとも、わたしはそんな考えの持ち主なので。

運転免許が必要とは、思わないのです。

 

──身分証明に使えると言うのはもちろんですが。

別の方法でも代替が利きます──パスポートとか。

 

いまは、マイナンバーカードなるモノもありますからね。

何れにせよ、身分証明のために運転免許証を求められる時代でもないのかなと。

 

……と、ここまで言っておいてなんなんですが。

わたし、運転免許証は持っているのですよ←

 

ただし、使った試しがないです。

運転するの、好きではないので。

 

ただ、有事の際に逃げられればいいなと思って。

運転技術だけは欲しかったので、教習には行きましたが──だって。

 

車の運転方法が分からなかったり。

ノーコンだったりしたら、生き残れないですもの──わたしの想定する、緊急事態下では。

 

 

なので、実際のところ。

運転免許はあってもなくてもいいので。

 

返納の仕方をよく調べるのですが。

ご老人を優遇するモノばかりですねぇ──わたし、まだそこまで歳取ってないからなぁ(トオイメ)←

 

あと、この運転免許を取得する際。

勝手にとは言えども援助した人がいる以上──返納してしまうのも恩を仇で返しているようで嫌なので。

 

まだ持っている、と言うわけですね。

──あぁ、その方々がお亡くなりになればこの限りではないですが。

 

その中に、死んでほしい人がひとりもいないので。

そのまま放置するしかないなぁと。

 

更新については、ただただ面倒ですけどね。

その人達の生きている証だと思えば──これも乙かなと、思うのでした。

風向きが変わったので

常に自分の。

やるべきこととやりたいことを。

 

思い浮かべるようにしています。

じゃないと、軸がブレてしまうので。

 

そして、やるべきことと。

やりたいことに乖離があった場合に。

 

その折り合いをどう付けていくか。

または、どのように一致させていくかを。

 

検討、するのです。

そうしていくうちに──自分にとっての。

 

やるべきこと。

且つ、やりたいことが見えてきます。

 

──と、言ったような思案をしていると。

登場人物が自分ひとりであることに気付きます。

 

自分にとって、自分のやるべきこと。

乃至、やりたいことと言うのは。

 

他者とは、独立したモノであるようです。

強いて言えば──時と場合と場所があれば可能な事象が主で。

 

誰がいるか、と言うのは。

有料プランのオプションに過ぎないので──外している、と言うところでしょうか。

 

これもまた、よいことだと思っています。

なぜなら、僕はソリタリーだからです。

 

ひとりでいることが、心地よく。

自分だけの時間や世界に、重きを置いているからです。

 

そのことについて、淋しいと思うことはありません。

人間関係と言うのは抑も、煩わしいモノですから。

 

ただ、それでも他者との交流なしに社会生活が機能しない以上。

誰かと接点を持つことは避けられませんから。

 

せっかく、僕と接点のあるかたについては。

丁重に振る舞いたいと、思うのでした。

 

そう、あなた。

あなたですよ──いつも、ありがとうございます。

ちょっとだけ……フラグを

HSPサイコパスは正反対なのか、と言う記事を。

いくつか見かけましたので。

 

軽く、浚っておきましょう。

まず、HSPから。

 

略さず書くと。

〝Highly Sensitive Person〟ってトコでしょうか。

 

直訳すると。

『とても敏感な人』ってことで。

 

要するに、感受性の高い人。

と言いますか──高すぎる人を、指します。

 

一方、サイコパスは。

〝Psychopath〟と書きます。

 

略でもなく、単なる英単語ですね。

あと、間違っても〝Psychopass〟とは書きません←

 

犯罪係数300overだと木っ端微塵になるあの世界ではないのです。

なんであのスペルなのかって?──第1作目担当の虚淵さんにでも訊いてください

 

で、なのですが。

サイコパスは簡単に言うと。

 

と言いますか、犯罪学者としては有名人と言っても過言ではない。

ロバート・ヘアの定義に拠れば。

 

──良心が異常に欠如している。他者に冷淡で共感しない。漫然的に平然と嘘を吐く。

 

なんてことらしいです。

なんかこれだけ読めばヤバすぎる人にしか思えないのですが。

 

実際、サイコパスの中にも。

緩めのサイコパスと、ガチめのサイコパスと言うのが存在しておりまして。

 

実際に反社会的行動に打って出るサイコパスと言うのは。

実際としては少ない(らしい)と言うのが。

 

実際に自分自身がサイコパスと同じ脳の動きをしていたと気付いた。

ジェームス・ファロン曰く、とのこと。

 

あぁ、彼の書いた『サイコパスインサイド』は是非読んでみてください。

贔屓目に言って最高でした──訳がまどろっこしい感じがしつつ、それもクセになります←

 

で、この2つですけども。

実際、全く異なって見えますね。

 

感受性の高すぎる人と。

良心が異常に欠如していて他者に共感しないなんて──真反対じゃねぇか、と。

 

皆さんは──あなたは。

どう感じますか?

 

全くの別物と感じるでしょうか?

それとも──そうではないように、感じるでしょうか?

 

僕はこの2つ。

それほど違うようには、感じないのです。

 

寧ろ、HSP且つサイコパスの人なんてのも。

あり得るんじゃないでしょうか。

 

HSPはつまり、感覚が鋭すぎる人ですね。

それでいっぱいいっぱいになってしまう人です(敢えてざっくり書いていますが、ご了承ください)←

 

そして、サイコパスはどうかと言うと。

感覚が鋭かろうが鈍かろうが──響かない(もしくは響かせない)ようにできてしまう人です。

 

じゃあ、HSPは感覚が鋭すぎるゆえに。

響かせないようにできないかと言われれば──それは、違うわけですね。

 

そのための、認知行動療法であり。

マインドフルネス療法と言っても、いいでしょう。

 

つまり、HSPサイコパスには。

共通部分が存在するわけで。

 

真反対の存在ではない、と言うことになるかと考えるのですが。

実際、どうなんでしょうねぇ。

 

僕は上記の通り。

時間が迫ってきているのでやっつけ仕事でぱぱぱっと書きましたが。

 

感覚的に、そんな両方の性質を保持している人もいるだろうと。

感じるのです──なんでかって言語化すると、上の通りですが。

 

んー……HSPサイコパスのハイブリッド。

言うなれば──防音室のようなイメージです。

 

外では響く(HSP的)のに。

中では響かない(サイコパス的)、と言うような。

 

ただ、よくある防音室と違うのは。

防音室の意思によって中で響くようにも響かないようにもできてしまう、と言うことで。

 

……え、サイコパスは完全な防音室なんじゃないかって?

それが、サイコパスの場合は。

 

共感はできなくても。

同感はできるのですよ。

 

なので、相手が悲しんでいることについて。

じわじわとこちらまで悲しくなってくる、なんてことはないのですが。

 

相手が悲しんでいることについて。

じわじわとこちらから悲しくなっていく、そんなこと自体はできるのですよ。

 

なので、サイコパスに感情がないのだとするのは些か早計で。

実のところ、自身の感情を能動的に弄ることが可能な人、と言うところでしょうか。

 

じゃあ、HSPはと言いますと。

訓練次第で相手の言うことなすことや、五感への過度な刺激に対処することが可能なわけですね。

 

サイコパスは、その訓練をせずとも。

最初から五感への過度な刺激に対処することが可能な存在なので。

 

じゃあ、この両者とは真反対の存在か。

なんて話に戻ってくるわけなのですけども。

 

僕は、否と、考えるわけです。

だって、共通部分があるんですもの。

 

そして、その共通部分から互いを観測したときに。

しっかりと対称な見え方をするかと言われれば──そうでもないので。

 

やっぱり、真反対とは違うなぁと。

恐らく、距離的に中間に位置するところで折り畳んでも殆ど一致しないでしょう。

 

……なんて。

急にどうしたと、思われそうですが。

 

まぁ、こんな日もあります。

あぁ、早く投稿して準備しないとっ