表に出ていることのみで判断する人は。
了見が狭いなぁ、なんて思いつつも。
表に出す側がよりにもよって。
出しているモノがモノであるならば。
そう採られるのも仕方がないので。
過程をいくつか飛ばして結論を書きますと。
各々自由にしたらいいんじゃないだろうか。
と言うことに行き着くわけなのです。
何をしようと、重箱の角を突いたり。
粗探しばかりする人もいますし。
実際に出しているモノが周囲にとってえげつないからと言って。
出していないモノまでえげつないわけではない──とも限らないですから。
じゃあ、「その人の本質はなんぞや?」と言われたところで。
そんなのは本人ですら認識できていないことのほうが常なのではないでしょうか。
なので、とどのつまり。
我々は──後悔なきよう、生きるしかないのです。