リビングデッドかく語りき
伊藤計劃が途中まで書いたのを。
『屍者の帝国』と言うのがあって。
先月、読み返してみたんですよ。
この本、19世紀後半の世界を舞台にしていて。
屍体の蘇生技術が確立されて、それを用いての産業や文明が栄えているなんて言う。
ある程度、史実を担保しておきつつ。
幾つかの点を決定的に異なるモノに変換した世界が、展開されているのですけども。
その中で、バーナビーと言う。
いい意味で剛健、悪い意味でトラブルメーカーなキャラクターが用いたセリフが。
何度読んでも、惹きつけられるのです。
それを、今回は紹介しようかなと。
──あれは、主人公のワトソン(これ聞いてピンとくるかたもいらっしゃいますね、きっと)が。
「生命とはなんだと思う」と訊かれたときに、答えたセリフなのですが。
バーナビーは。
こう言いました。
──性交渉によって感染する致死性の病
……と。
こう言う「全く以て反論し難く本質的且つ明確で盲点となる表現」と言うモノを。
まさか、かつての相棒を自身の頑丈さゆえにぺしゃんこにしてしまうような人から出てくるなんて。
思ってもみなかったので。
こんなセリフが飛び出してきたとき、驚いたモノです。
もしや此奴、脳筋のフリをしているだけなんじゃないか……と。
言うのは置いておくとして。
この、セリフですよね。
とても、心に残っています。
人は、生命の誕生を喜ばしいモノと捉えますし。
無論、それは正しいことなのですが。
生命あるモノは間違いなく死を迎えることも必定なわけでして。
生むと言うことは、その対象に。
苦しみを与えることと、同義でもあるわけです。
あの行為に、それだけの価値があるか──いいえ、違いますね。
それだけの価値を見出すことができるか否かを見極め判断している人が、どれだけいるのだろうと考えると。
最近、疑問に思ってしまうモノですから。
親になると言うことが──そして、生むと言うことが──何を意味するのかについては。
幾ら考えても考えすぎると言うことはない、と言うと。
「じゃあ考えるだけ無駄だから考えずやっちゃえ」と言う短絡的なアホが目に付くなぁと、やはり思ってしまうわけですから。
嗚呼、これはこれは。
自身の経験したことやすることに思いを馳せれば思いやりの心を育むことができる、なんて理想論でしかないなと。
人は、喉元過ぎれば熱さを忘れる生き物ですし。
未だ来ないことについて使用することのできるリソースなんて、高が知れているのですから。
子どもから見れば、自分と言う存在って。
他人の快楽から生まれたモノなわけですよね。
生とは苦痛を伴うモノなのに。
もし親が子どもの成長を尊ぶことのできない存在であれば、それは兎角不幸なことだと思うのです。
親は、刺し殺されても文句は言えないでしょう。
そしてそのような子どもに「あんたをここまで育ててくれた恩が云々」とでも言うようなことがあるならば。
その人自身も、その親と同じ末路を。
辿ってしまっても、不思議なことではないように思えるのです。
──その子どもは、性交渉そのモノをどう感じることでしょう。
自身がどのようにして生まれたと思っているかに着目すれば──あとは、推して然るべしと言ったところでしょうか。
斯くして、この世界では。
少子化の一途を辿り続けてしまうやもしれませんので。
『屍者の帝国』で言うような蘇生技術についても。
粗方完成させてもいいんじゃなかろうか、と思……わないですね、うん←
いや、ロボットでいいじゃん。
人工知能を導入するまでもなく、それでいいじゃん産業と文明の支えくらいなら←
と言う、妄想をしたところで。
そろそろ、お風呂に入る準備して眠りましょうかね←←←