一物
以前、ドラマCDで。
「病院でよくモツ食べられますね」と新米看護師が先輩看護師に言うシーンがあって。
実際に従事していると慣れるのかなー
とか。
それくらいできないとやってられないのかなー
なんて。
思っていたわけなんですが。
最近、グロ系の映画を観終わったあとに。
こんなことを言ってました。
ふるさと納税をするなら下処理がされている内臓肉がいいな、と言うような←
……僕も同類でしたか。
嗚呼、映画で人が掻っ捌かれてたと言うのに←
作り物って、偉大です。
なので恐がる余裕が生まれます。
これが、実際に起こることであれば。
そのとき、恐がる余裕なんて……まぁ、なくても恐いとは思いますが←
時間が経って、守られた空間に置かれてから。
やっと余裕ができて──急に、恐くてこわくて堪らなくなる。
──なんてことは。
ザラなんじゃなかろうかと。
そのときの当事者って。
周囲のかたからは、大袈裟に恐がっているように見られかねないんですよね。
だって、何も起こっていないように見えるわけですから。
何を大仰に、と思って見てしまいかねません。
これは、すっごく痛々しい話だなぁと思うのです。
その人の感情はその人自身が得ているモノなので。
実際の対象から離れていようと。
近かろうと──それほど関係がない、と言うのが実状な筈なのですが。
周囲からは、その実状が。
自身の実状ではないゆえに理解が難しく。
「何をそんなに恐がって」と。
目を向けてしまう──と、言うことなのでしょう。
この、周囲と言える人たちが赤の他人だったら。
どれだけよいことでしょうか。
されど、そう言った対応をする人と言うのは。
僕の経験上、当事者の近親や友人が、多いように思うのです。
このとき、相手の思考や感情を過小評価しない姿勢が必要です。
そして相手が何を訴え、自身に何ができるかを考え、伝えることが肝要だと僕は思います。
──僕も、そう言った姿勢を貫けるといいのですが。
嗚呼、僕の影は斜めになってはいないでしょうか。